2018年8月7日火曜日

死について。

「死」について。

重いテーマだけど、誰もが100%の致死率で生きているので避けて通れない出来事。それに、この高齢化社会を迎えて、私たちは多くの「死」に「突然」対面することになって慌てているし、不安もあったりします。だからこそ、色々なところで「死」についてのワークショップや講演会が開催されているし、本もたくさん出ているわけです。

これはまだまだ深めていかなければいけない事柄なので、あくまでも今現在の私の考えです。今回は備忘録のブログ。

死を考えることは生を考えること。つまり生=死であり、死=生。

確かにそうだと思います。思うのですが…、こういうたぐいの話になると、まず最初に出てくるのが「死にざま」の話。管に繋がれて死にたくない、家族のもとで、植物が枯れる様に、中には自分で死を決める…など色々あると思うのですが、自分の死にたい死にざまで死ねる人が一体どれほどいるんだろうか…と思うのです。

「理想の死」。死の形を明確に設定すればするほど本人も周りの家族も苦しむような気がします。

そして、その「理想の死」をもとに、生き方を考えるわけです。多くの場合この生き方は仕事や家族、さまざまな種類はあれど、「どう自己実現するのか」という話だったりします。計画をたて、それを達成し…。

自己実現が叶えば理想の死を迎えれるのか?
疑問です。

生=死、死=生と言いながらも、この発想は死の直前の事柄までの視点。つまり生だけなように思うのです。生と死が分離している感じです。

多分、本質的に「死」そのものについて意味を見いだせていないからだろうし、結局きれいごとにしてしまっているように思います。
死とはなんだろう? 私の存在とは何だろう?
もはや医療や心理という事だけでは言い切れない内容です。

昔(大昔)の文献をみてみても、たくさんの死についての書や絵図が残っていることから「死」についての問題は究極的な問題だったということは想像に難くないことです。環境も様々な背景も今と昔では違うので全てを参考にすることはできないですが、ただ、死に対しての創造性や柔軟性は格段に今よりあったことは間違いありません。

…ということで、直球で文章も書けませんし、だから全くまとまっていません。更にひとつも答えは出ていませんが、今日はこの辺まで。

一年後どの程度自分の考えを吐露できるようになっているのか。自分自身に期待を込めて(笑)

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