2018年8月24日金曜日

自分と向き合う難しさ。

私もよく使いますが「自分と向き合う」ということ。
これって、結構シンドイことです。

ただ、一般的にみてみると、ちょっとキラキラしたステキな事のようなイメージがあったり、とっても簡単な事のように書いてあったり、静寂の中で浄化されるような清々しさの部分だけを感じさせるような場合が多いように感じます。

綺麗な言葉で蓋をして、観た風にしても良いとは思いますが、多分これは一見解消されたように感じますが、実際は問題を複雑にするのと同時に、<自分が好ましいと思う自分とだけ向き合う>という事かな、と思います。

でも、実際はだいぶ違います。好ましかろうが、不快であろうが、向き合います。自分と向き合うというのは、正しくは<自分のエゴと向きあう>という事です。だからこそ、なんの手段も持たずに本当にやろうとすると、かなりキツイのです。

ちなみに、私自身は昔、キツクて嫌になった時期がありました(笑)
自分と向き合うにはそれなりの「お作法」が必要なのだと思います。そうでなければただただ傷ついたり、ありもしない別の問題を生み出してしまうからです。

この「お作法」を身につけることの一つが、身体や呼吸の声を聴いたり、ヨーガでいう所のヤーマ・ニヤーマや、仏教では十善なんだと思います。

実際に身体を使ってみると分かります。
身体や呼吸は「この辺で~」と言っているのに、頭の中の、こうやったほうが良い、こうしたい、~しなければならない、という方を優先してしまいます。身体や呼吸に合わせると物足りなさまで感じる始末です。でもこんなことを繰り返していれば当然、身体を壊す結果を招きます。

また一方で、追い求めれば取り除くべき原因にたどり着くと思って、がむしゃらに追い求めたりしがちです。逆に、これは良い!と思うと同じようにがむしゃらに追い求めます(例えば感謝の押し売り的な…)。いずれにせよ、やはりバランスを崩します…。

心と身体は一つです。でも心は良くも悪くも暴走しがちです。
だからこそ、見える身体や感じ取れる呼吸、ヤーマやニヤーマと言った教えが、心と身体のスピードや力づよさのバランスを取り続けるための力となるのです。

ただ「気づく」。それ以上を追い求めない姿勢の難しさ。
一足飛びに進む事はできないかもせれませんが(まれに進んじゃう人もいますが)、今の自分のペースに合わせて「気づく」という事が、自分と向き合うために求められる大切なことかなと思っています。


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