2018年6月29日金曜日

程よいテキトーさ。

自然の中にいると自然は私に程よいテキトーさを求めてきます。

草を刈るにしても、畝を立てるにしても、種をまくにしても。
私はそんなにキッチリしたタイプではないけど、最初の頃このテキトーの塩梅がよく分からずにいました。今でもまだ掴みきれていないけど、その頃に比べれば幾分、色々な事が分かってきたように思います。

キッチリを目指すと結果、ぐだぐだになります。
テキトーにしておくと、良いところにおさまります。

キッチリやろうとしている時は、自分の“やった感”は満たされますが、“やった感”とその結果は比例しません。
テキトーにすると、“やった感”は満たされませんが、結果は良いものが出きて満たされてしまう時があります。

キッチリやろうとしている時は、自分以外の働きに意識が行きません。
テキトーにやっている時は、自分以外の様々な働きに意識が向いて視野が広がります。

キッチリやろうとしている時は、お任せできません。
テキトーにやっている時は、お任せする気満々です。
(なぜなら、その方が上手くいくからです。)

キッチリやろうとしている時は一人で歯車を回しているので、疲れるし単調です。
テキトーにやる時は色々な力を借りるので、効率よく且つ複雑に歯車が動きます。

キッチリやろうとすると距離感を取るのがなかなか難しいです。
テキトーさをもっていると、距離感がとりやすくモノゴトを俯瞰して観れるようになります。

程よいテキトーさはこんな感覚です。こんなことを自然から教えてもらっています。ちなみにキッチリしていなくても、いのちは答えてくれます。



もちろんデータを収集したり、お金のことだったり、キッチリさを求められることは日常生活ではたくさんあります。でも、すべてがキッチリである必要はないようです。今はむしろ少ないように思えます。

キッチリ感とテキトー感。
もっと上手に使えるようになりたいもんです。



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